Saturday, June 13, 2009

人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
伯国生まれ、伯国育ちの私は幼い頃戦国時代マニアの父の影響を受け、日本史を少々齧った。伯国で生まれながらも、日本人の顔を持つ事を疑問に、地球の反対側に有る日本という国に憧れ、来日までしてしまった。日本の時代劇好きな伯国人も珍しいでしょう。

外国でよく言うアイデンティティクライシスにもなり、ある時は日系人であることも軽視し、父と日本語を話すことをやめたくなった事もある。伯国で普通の白人学校に通っていたころは、ただ一人の日系人であった為、あだ名も「日本人」の変形が多かった。初めはそのような呼び名を嫌っていたが、大きくなるにつれて、自分が日系人である事から逃れられない事を実感するようになり気にならなくなっていった。

そんな中で私は伯国と日本の二つの文化をかけもち、中途半端な状態で育った。15で米国に渡った時には、自分と言うものを築いていく為、又は自分の考えを守れるよう、気を強くするように意識した。

私は日本語の本をあまり読んだことはない為、古い日本語は理解できていなかったが、なぜか気がついた頃には憧れの織田信長(正式には織田三郎平朝臣信長)がこの節を特に好んで演じたと伝えられている表題の詩をよく口にしていた。

一度意味を考えてみたときには、あれだけ前向きで自分の夢に対して真剣な信長が「夢幻の如くなり」と言う詩を好むことに疑問を持った。そこで調べた所、この詩には下記の様な続きが有った事が分かった。


思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ


仏教には、六道と言う主に魂が繰り返し生まれ変わる輪廻が存在すると言われている。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界
その中人界は唯一天界への道へと繋がっていると言われている。

尚、人界に生まれる確率については、釈尊が弟子達にこう尋ねられたことがあると親鸞聖人により伝えられている。

“たとえば大海の底に盲亀がいて、百年に一度海面に浮び上る。
海面には真中に穴のある丸太棒が一本浮遊している。
 百年に一度のチャンスに、丁度、浮木の穴に盲亀が頭をひょ
こっと出すことがあろうか”
“さようなことは考えられません”
 側近の阿難が答える。
“絶対、無いか”
“絶対とは申しかねますが……”
と口を濁すと釈尊は仰有った。
“盲亀が浮木の穴から頭を出すことは、限りなき歳月のうちに
は全く無いとは言い切れぬ。しかし、人間に生れることは更に
有ることの難い、有難いことなのだよ”

天界内もまた六欲天と言う異なる世界に分かれていて、各世界の住人の寿命は異なる。例えば、「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。信長の言う「下天」は、天上界六欲天の最下位の世で、その世界での一日が人間界の50年に当たると言われている。尚、住人の定命は500歳とされる。そんな計り知れない大宇宙の規模に比べれば人間界(じんかん)住民の命は下天の住人と比較しても儚いものである。

信長は天下を取ると言う夢に向かいながらもこの詩を演じ、私達の日々の苦難がどれだけ小さいか証明した。人界で生まれる事が出来たと言うのは崇高で尊厳なことであり、盲亀が浮木の穴から頭を出すと言う非常に確率が低い。仏の手のひらに乗った孫悟空のように暴れる私たちだが、生きているからにはそれを意識しながら自分が正しいと思う事を実現し、信長のように一生懸命生きるべきなのではないのか。